k's point of view

経営を本業とし,その現場で毎日活動しています。このブログは,旧司法試験の問題を中心に,新たに実務的視点で考えてみるブログでしたが,最近は,ビジネス関連の雑考や法律・ビジネス関連の書籍紹介の記事が多くなっています。

平等に関する公法学の基本フォーマット

平等条項の解釈論は、憲法学にとって最大の難問のひとつとなっている。

「平均的に皆を等しい扱いをする」ということが正義なのか、それとも配分的正義、「その人に相応しい扱いをすることが大事なのか」、これが正義に関する議論の原型になっている。

の正義論と密接な領域を法学が解釈論として扱おうということになると、厄介な問題になる。「平等で均質な国民を作る」というのが近代国民国家のもとでの平等の要請の最大のものであり、国民国家の実現とともに、平等については、課題を果たし終えたということになり,国民というものを前提にして、あとは普通に個別法の解釈論をやっていけば良い、というふうに受け止めていった。結局、「平等は法学では扱うのをやめよう」ということになっていった。あとは自由をしっかりやっていけば充分という前提で、自由権中心の公法学が展開されていった。

平等について,まず第一に問題になるのは、差別的取扱いを禁止すること「えこひいきはしない」。これは、仮に平等均質な国民というものができあがっても、なお公法学が気にしなければいけない論点とされる。公法学上の平等論というのは、差別的取扱いの禁止という局面でのみ争われた。

 もうひとつの論点としては,統治機構の設計の仕方である。そこで、統治機構に就任して仕事をする、そういう問題は、別枠で考えられ,この文脈で,公務就任権の平等の問題というのは、なお公法学が論じなければいけない領域であると考えられてきた。とはいえ,皆が公務に就くわけでは必ずしもないので、周辺的な論点である。

これ位のことをやれば、法学にとっては「平等は終わり」ということであった。これが出発点である。

 

() 法内容の平等

その後,法内容の平等,法の内容正義に照らしてこの法律の内容が正義にかなっているかどうか、というこの大論点が法解釈論に入ってくる従来,これは議会あるいは政治哲学に任せればいいということで、公法学はそんな大それたことはしないということだったのだが、正義に照らして法律の内容をチェックするというこの仕事が公法学そして公法解釈、公法解釈実務家に課せられる、大きな分かれ道に立つことになった。

そしてまたこれはただ単に学説が解釈論として扱うだけではなく、法律をチェックする新たな審査の機関が必要になる。ここで初めて法律の憲法適合性審査あるいは違憲審査という論点が浮上することになる。これまでは,憲法に適合しない法律は議会が自己審査をしていた。しかし,憲法の趣旨に反しないかどうか,個別立法の帰結をさらに上位の規範・正義に照らして判断するというメタ作業が要請されるのであれば、この審査の仕事は議会以外のところに渡さなければならないということになる。当面は三権分立の統治機構だと、大統領や君主といった国家元首にこういった仕事を任せるか裁判所に任せるかの選択肢しかない。その二者択一の中で,第三者的な機関としての性質を持つ裁判所がふさわしいのではないかという判断で、そこでこの違憲審査の仕事は裁判所に任せることになった

しかし,どういう裁判所に任せるかという制度設計がさらに必要となってくる既存の司法裁判所つまり民事刑事の裁判所に違憲審査を任せるアメリカ型がよいのか、それとも独立の専門の裁判所を作ってそこに集中的に審査させるか,ということが問題となる。

 

() 合理的区別

日本の場合は憲法が付随的審査制だと決めているため、アメリカ型の付随的審査系の裁判所にこの正義の審査を任せている。

憲法を介しその背後にある正義に照らして法律を判断する、という政治哲学の作業を裁判官にやらせるわけである。ここでの帰結は,区別はやむをえないとして、その区別が理性に照らして正義にかなっているかどうかという意味で個別の法律が合理的であるかという問題を作った。これがいわゆる合理的区別論である。

そこで合理的区別をどう表現するか、どう言い換えるかというのが次の問題になり,「裁判官に期待できる合理性の判断とは一体何だろうか」ということを問うことになる。政治哲学であればこれは最大限度の合理性というのを要求しなければならない、本当に理性に照らして正義にかなっているかどうか、とことん考えことになるが,それを裁判官に、特に付随的審査制の場合と民事刑事を扱っている普通の裁判官にはそこまで期待できず,そこで要求できる合理性の水準(トレランス)を探さらに,現実妥協していくと、議論はだんだん腰が砕けていくことになる。合理性あるいは客観的な合理性というものの反対物は一体なんなのだろうかというと、これは主観的な恣意性である。「恣意」は理性の反対物、また客観性の反対物であるため,本来要求しなければならないのは客観的な合理性の追求で、最小限はっきりしているのは主観的な恣意がその反対物であるというのは明らかである。そこで実務法曹に要求できるのはここまでではないか、という諦念に到達するわけである。

それをそのまま放置しておいていいのか、という反省も当然起こってくる。恣意的な法律などまずなく,もとのままでもよかったのではないかということにもなりかねない。散々な思いをして違憲審査のことを考え、どの裁判所に任せるか、マニュアルをどうするか、一生懸命考えたのに出た結論がこれではあまりに情けないと、恣意的な法律しかチェックできないようではどうしようもないということになりそこから立て直していく作業が始まった。この点で一歩先んじていたのは黒人差別の問題があるアメリカの平等審査のあり方で、これを多くの国が意識していくことになる。

 

() アメリカの平等論

差別問題がアメリカの平等論を鍛えることになった。南北戦争という惨禍を引き起こしてしまった社会構造の問題をどうするのかという宿命的な論点をアメリカの憲法学は抱え込んで今日に至っている。

この社会構造の改革の問題に裁判所が挑んだ時期があり,それがアール・ウォレン裁判長が指揮していたころのアメリカの連邦最高裁であるこの人物は、アイゼンハワー大統領の政敵で、本来は大統領を争う立場の人だっのだが,体良く最高裁に押し込められた。このWarren Courtは差別問題に非常に熱心だったため、差別に関する判例が発達していった。その中でもエポックメイキングなのがブラウン判決である。こを頂点とする一連の判決で、Warren Courtは差別問題を強制的に解決しようと考えた。連邦の権力である連邦裁判所が平等を強制してくる状況に対して、特に南部の諸州は、実力で反抗する展開になったが、ついにWarren Courtは押し切ってしまった。

それまでの平等の考え方は、例えば人種の場合だと人種別学という考え方が、同程度の白人学校と黒人学校をつくって、別々に通わせるということだった。これはWarren Courtが出てくる前までの判例で、「分離すれども平等」という考え方である。しかしWarren Courtは、これを平等違反であると考え、強制的にバス通学をさせて黒人学校と白人学校を混ぜこぜにした。積極的に、社会構造の改革に議会ではなく裁判所が取り組むことになる。

このことから差別問題について,”suspect classifications”、疑わしき区別が問題になっている場合には、目的と手段が適合しているかどうかを厳格に審査するという準則を作っていくことになる。疑わしき区別は人種が典型だったが、それ以外にも探求され人種,信条,性別,国籍が挙がったが,そのうち、性別や国籍は厳格審査から脱落していくことになった。中間審査あたりまで落ちてしま。性別の場合は、身体的な機能の違いに基づく理由のある差別もあるはずだから人種差別と同じように扱う必要はないという緩和の方向論拠が持ち出された国籍についても同様

それから,もう1つアメリカの判例からできあがってきた論点は、”fundamental rights”、基本的権利といわれている論点。アメリカ憲法の人権条項は、あまり網羅性がないということで、本来憲法に書かれてよさそうな人権が憲法に書かれていないことがある。そういったfundamental rightsが争われた場合には、やはり何でもない権利の比較がなされている場合とは違った扱いにすることになっている。

ここで一番重要なのは選挙権で,選挙権の平等ということで、投票価値の平等を害するような、一票の重みに差がつくような定数配分について違憲判決が下され、これは現在日本で最も注目されている憲法問題の1つになっている。

それから、裁判所へのアクセス権、日本でいうとレペタ訴訟みたいなイメージがやや近い。裁判所、つまり法廷に行って、ちゃんとアクセスしてメモを取ったりとか、公開法廷を要求するとか、そういった裁判所へのアクセス権というのがあげられる程度で、それ以外はほとんど問題になってこなかった。

さらにここに一時期入りかけたのが、福祉受給権という生存権的な問題である

注意すべきは、人権条項に載っていない権利、明文の根拠を持たない権利について争うとすれば、平等くらいであるため、その場合にはやはりfundamental rightsに相応しい処遇を求め,審査の厳格度が上がることになる。平等というと、それまでは恣意的な区別でなければ、明白に不合理でなければ合憲ということだったが、それより厳しくしなければならないということで、中間審査基準に引き上げられていった。

 

() 日本の展開

日本ではこれを取り入れようということになったが,日本の憲法というのは差別問題について非常に強い意識を持った憲法である。憲法第14条の構造に注意する必要がある。通常,法内容の平等を語る際には,一般的な平等原則は大事にしつつも、しかし平等原則は一般に平等で均質な国民を作った段階で解決済みであるというのがそれまでの流れであるため、一般的に平等を語る必要はないと思われていた。そこで特殊な平等原則の問題として差別的取扱いの禁止公務就任権の平等を語れば足りるということで、一般的平等原則で語るべき内容はもう解決済みというのが、元の考え方だった。その前提で憲法を作ると、憲法典の中から一般的平等原則が姿を消してしまうことになる。一般的平等原則のない人権条項が作られるわけである。日本の場合明治憲法がそうで,一般的平等原則を持っていない。公務就任権の平等については規定があるが、一般的平等原則はいらないという考え方だった。

この流れからいえば、憲法第14条に一般的平等原則を復活させれば足りるということになり、中身が何かというと相対的平等であって、「等しいものは等しく、等しくないものは等しくなく」、で十分ということにになるはずであったが、日本の憲法はそういうふうには作られなかった。

憲法第14条は,差別問題について、非常に敏感な条文のつくりになっている。これは,ベアテ・シロタ・ゴードンという当時一番若かった民生局の女性が、性差別その他差別問題を日本で解決しようとた名残で、差別問題に非常にセンシティブな条文として条ができた経緯がある。

憲法第14条の「前段の前段」は平等原則で,後段は、列挙条項によってこの経済的、政治的、社会的に差別されない、社会的関係において差別されないという差別条項となっている。これがいわゆる列挙事項といわれるものである。日本国憲法は差別問題に非常にセンシティブな憲法としてできている。そこにアメリカの議論が妥当する。そこで、日本の新しい解釈論は、合理的区別論に接ぎ木して、列挙事項の解釈論として、アメリカのsuspect classificationsに関する判例を代入するという形で議論が展開された。

これに対して最高裁は、この列挙事項は例示に過ぎず,法的なrelevanceがないと言い続けている。

その後の学説の展開で問題になったのは、アメリカの判例が後退し始めたという状況をどう受け止めるのかという論点である。Warren Courtのころはアメリカの判例がとにかく正義だったので、それをそのまま翻訳すればよかったが、それ以降の判例で、この性別や国籍について明らかに議論が後退している。基準も引き下がっている。

アメリカの判例が正義ならば、の新しい方が正しいということにな、性別や国籍に関する審査基準は厳格審査ではなくて中間審査になるわけが、ここで問題になるのが、なぜそうなのかということである。これは結局、目指していた正義はなんだったかという問いかけになっていくわけで、アメリカの議論をそのまま輸入できなくなってしまったという段階、自明であると思っていたものが自明でなくなった段階から、徐々に平等という正義に関する理論的な考察が要求されるようになってきた。

当然この点で議論を進めているのは政治哲学、法哲学ので、そういった議論も参照しなければならないという意識が、この論点をきっかけとして人権論全般に広がっていった。これが90年代の日本の憲法学のテーマで、代表格は長谷部教授で,彼をはじめとする人たちが90年代に一所懸命やろうとされたのはこの自明性が失われた世界での憲法学のありかたの追及の作業と、そのための試行作業、試行錯誤だったということができる。

それからもう1つは、この基本的権利に関する論点である。大事なのは天秤の中身で、平等という土俵を借りて争われているけれども、端的に、基本的権利の侵害が争われている事案があるはずではないか。そういう深刻な事案と、どうでもいい法益を比べている事案を同じに扱っってはいけないということになる。そうすると大事なのは、例えばYXがいるとすると、Xの権利侵害をどう扱うのか、これが本体ではないか、という問題意識が高まってくるわけである。そうなると、この基本的な、fundamentalな権利の侵害についてどう処遇すべきかということをシリアスに考えるようになる。そうなると、議論はだんだんと普通の自由権論に接近していく。そこで,平等の事件であっても、自由権の侵害と同じように審査をすべきいうことになってくる。そして、この自由権の侵害について長い間使われてきた枠組みが、立法目的と立法目的達成手段の釣り合いがとれているかという基準(比例原則)である。

平等権に関する判断の枠組みは依然として合理的区別論がベースであり、従って恣意の禁止がスタートラインだが、そこから次の2点において留意が必要である

第一は差別問題に固有の処遇の仕方としての厳格審査。

第二は中身を見れば権利侵害問題であるという場合についてはそれにふさわしい扱いがあり、それはドイツに倣えば比例原則という目的手段の図式である。特に権利が重要ならば手段は最小限度でなければならない、またそうでなくとも立法事実をちゃんと見て中間審査くらいはしなければならないという流れに自然となっていった。

ちなみに,ドイツの場合はずいぶん遅れて90年代、日本から20年ほど遅れてアメリカの議論の導入に踏みきった。もちろんアメリカが一歩先んじているのは差別問題を抱え込んでいるからであるが、本来あるべき方向というのがここに表わされているとみてよい。

 

() 問題

問題はこの基本的権利である。疑わしい区別についても、なぜ性別や国籍について中間審査でいいのか説明がないことを措いて、最大の問題は基本的権利の扱いの仕方である。本来は権利侵害を直截に争えばよいものの、例えば明文の根拠がないなどの何らかの問題で、平等の土俵を借りているという場合があり得る。

例えば憲法第21条の表現の自由が争われているのであれば、個別の規定があるのだから、そこで争うはずであろう。それから憲法第22条とか第29条のような経済的自由権も、アメリカの場合と異なり日本の場合は条文があるのだから、ふつうは当該自由権規定を使うのが筋である。さらに、アメリカには憲法第25条に相当する規定がないわけであるが日本にはあるわけである。個別規定本体で争って勝てないものが、なぜ一般条項の憲法第14条に行って勝てるのか、といったことも疑ってかかる必要が出てくる。

憲法第15条もそうで、例えば議員定数の不均衡の問題は、都市部の選挙民の選挙権が、公職選挙法によって侵害されているというのが本体であって、鳥取や島根の人を引き合いに出すのは本当は間違っているのではないか、ということを考えてみる必要がある。逆に言えば憲法第14条にどうしても乗せたくなるのは、憲法第25条や第15条の権利性に弱いところがあるからではないか、ということを考えてみる必要がある。憲法第25条は具体的権利なのか疑いがあり,第15条に関しても権利なのか公務なのか疑いがあるため,第14条に乗せる理由はそれぞれあるわけである。しかし,実体は同じで,憲法第14条に乗れば勝てるというものではなくて、たまたま扱いにくいからそういうようになっているのだ、というように考えなければ、議論の方向が見失われるということになる。そしてこの議論に乗らないものがあるとすれば、それは疑わしき区別のほうに乗っているという筋であるべきである。

判例・学説の歴史を踏まえ、日本の憲法14条の特に列挙事項の解釈論ができているのか、それがどういう思いで恣意の禁止の基準から浮上しようとしたのかということを意識、議論しなければならない。

 

() 国籍法判決

この判決の論理構造は、まず,「国籍法第3条第1項による国籍取得の区別の憲法適合性について」、という項目が立っている。憲法第14条論が立てられて、まずはおおまかな構成について説明をする。というしかけになっている。次に,この国籍法の第3条第1項を中心とする論理構造について説明がされている。これが日本の判決の一つのスタイルになっている。憲法法制度の説明と個別法制度の説明をするというのが定番である。

問われているのは実際には要件効果の形をとった命題形式の条文。これを仮に法命題と言っておくが、問われているのは法命題であるが、最高裁は法命題を説明するために必ずそれを含む法制度の仕組みについての議論をする。その中でこの要件効果の命題にどのような意味が与えられているかということを説明する。

法典は法命題と法命題の連鎖によってできている。日本国憲法についても法命題が並んでいる。それぞれ別々に分離解釈していこうという方法もひとつの解釈方法論だが、最高裁はこの法命題が積み重なっていくつかの法制度をという中間的なパーツをつくっていると考える。法制度と法制度が積み重なって憲法という法体系ができていると考えている。条文を考える場合には必ず法制度から考える。法命題と法命題の隙間があった場合には法制度の理解を通じて充填をする、こういう伝統的な手法を大事にしている。

さらにもうひとつ論点になっているのは、この間をつなぐ憲法第10条(「日本国民たる要件は,法律でこれを定める」)に規定する「日本国民たる要件」(国籍)とは何であるのか、という論点である。これについても法制度の説明をする。こういう形で教科書的な説明を必ずおくようにしている。

憲法第10条に関する法制度については、いちおう立法裁量を尊重するが、立法目的に合理的な根拠が認められない場合又は認められたとしても立法目的とそれから実際の区別の間に合理的関連性がない場合には、合理的理由のない差別として条違反になるという枠組みを用意している。すなわち目的と差別の基礎の審査である。

また,fundamental rightsの論点、どういう権利が問題になっていて、どう処遇するのがふさわしいのか、ということが議論の対象になるわけであるが、はたして何権が侵害されているのか、という疑いをここで持たなければいけない、ということになる。憲法上保護に値する権利・利益・地位というものはあるわけで,それは憲法第13条とか第14条に持っていけばいいのだが、とにかく実態は憲法ランクの保護を必要とする権利・利益・地位が問題になっている、というのがこの目的手段の図式をとることの意味である。それがここにあるということを考えて判決を読まなければならない、ということになる。
最高裁の理解は、日本国籍は我が国の構成員資格であると同時に基本的人権の保障や公的資格の付与、公的給付を受けるべき意味を持つ重要な法的地位でもある、と言明している。そしてこれは、子供にとってはみずからの意思や努力によって変えることのできない身分行為に関わる問題であるから、これについてはきちっとみなければならない、と言明している。

※ これと違う流れとして尊属殺の事件のフォーマットとなっている目的と手段の審査があるが、よくみると、これは平等の審査の考えではなく自由権を典型とする権利侵害の判断の仕方のフォーマットになっているということを読み取る必要がる。その原型は警察法の領域になり、警察比例の原則というように言っていたものである。つまり警察権の行使につき,自由権を侵害しすぎないようにさせるために作られた基準だというわけである。そこからもわかるようにこれは本来自由権の基準なのである。それを説明なしに平等の審査基準としてやっている。これはいったいどういうことか。これは2つのことを意味しており、1つは差別問題に関する疑わしき区別の論点が希薄であるということ。それから平等というものがこれは世を忍ぶ仮の姿であって、本体は自由権を中心とする権利侵害の論点であることを最高裁自体が自白しているということ、この2つを意味している。

この目的手段の図式で済むのであれば,本体は自由権を中心とする権利侵害問題だろう、別の条文に本籍があるだろう、ということになる。おそらく懲役刑という刑罰権の行使により,包括的に自由権を制限するという,当該規定の個人への法益侵害の程度が重大であったから,尊属に対する尊重報恩を被侵害法益とすることの当否にとどまらず(また,尊属・卑属の区別は立法目的との関連でperfectly tailoredである),刑罰の重さの審査という手段審査にまで一歩さらに踏み込み,比例原則が適用されたという理解が妥当であろう。

 

() 補足

なお,判例の特徴として,目的・差別の基礎の審査ではなく,端的に差別に合理的根拠があるかどうかを問うというもう一つの流れがある。試論だが,法律の目的の正当性に問題がなく,差別の基礎が法制度の正当な目的と合理的に関連しているかどうかを問う,差別の基礎がメインイシューの場合に用いられる判断手法であると考える。

法的区別には代替指標に頼らなければならない場合(社会保障の場面でシングルマザーかどうかを基準にすることなどを想起)は必ずあるわけだが,これがnarrowly tailoredされているかどうかなどを問えば,偏見に基づき,特定の集団を不当に優遇し特定の集団を不当に冷遇したりしておらず,特定の集団に対しstigmaを押し付けていないということになり,日本国憲法の根源的な思想である,個人の人格の根源的平等が保全されることになる。

なお,この「合理」的根拠という表現から,学説からは,これが学説上の「合理性の基準」と符合するという一般的な判例理解・批判が存在するが,これには強く反対する。