k's point of view

経営を本業とし,その現場で毎日活動しています。このブログは,旧司法試験の問題を中心に,新たに実務的視点で考えてみるブログでしたが,最近は,ビジネス関連の雑考や法律・ビジネス関連の書籍紹介の記事が多くなっています。

アジア諸国における外国資本の導入

2010年ごろ,私はマレーシアに滞在していた。その際,この機会にアジアの経済を調べてみてみようと思い立ち,今回はアジア諸国の経済の発展,特に外国資本の導入による発展を調べてみた。

 

まずは,インテルと関連が深い台湾を取り上げ,その後で外国資本の導入の究極形態であるシンガポールと,成長著しいマレーシアを取り上げる。

 

 

 ・関連記事
 

onlythegoodyoung.hatenablog.com

onlythegoodyoung.hatenablog.com

 

 

第1  台湾

 

1 1970年代及びそれ以前

台湾もシンガポールやマレーシアと同様,輸入代替工業化政策を実施したが,間もなく行き詰まり,輸出志向工業化政策へ方向転換した。これは以下の内容を持つ。①関税の還付や免除,②為替レートの切り下げと一本化。①に関連して,台湾南部の高雄に作られた輸出加工区は,敷地全体を関税免除の対象とした工業団地である。そこに輸入される部品や材料の関税は免除された。ただし,そこで作られた製品は全量,輸出が義務付けられた。これらの政策の結果,優秀な低賃金労働力という,台湾が本来持っていた優位性が発揮されることになった。1960年代,繊維製品など,大量に労働力を使う労働集約型の製造業が,急速に発展した。

このような工業化は,経済成長をもたらしただけでなく,失業者の雇用を拡大したため,1970年代初頭,労働力の不足が顕著になった。これに対して政府は,重化学工業化を進めることにより成長の継続を図った。重化学工業は資本集約型といわれ,巨額の資本の塊である機械設備が重要な役割を果たし,生産額の割に人手を必要としないため,賃金上昇の影響は小さい。1970年前後,政府は,大型造船所,一貫製鉄所,大型石油化学コンビナートの建設を計画した。このうち,鉄鋼と石油化学は成功した。その一因は,その製品を材料として用いる輸出工業が発展したことによって,国内に大きな需要が形成されたからである。

民間では,多数の中小企業が生まれ,それがネットワークを形成して分業するようになった。これによって,台湾の輸出工業は競争力を維持することができた。分業のメリットは以下の通り。第1,主婦の内職を可能にし,新たな労働力を獲得できる。第2,管理がしやすく,生産効率が上がる。第3,各企業は専門知識を伸ばせる。第4,需要の変化に柔軟に対応できる。

輸出志向政策の成功のもう1つの要因は,受託製造という仕組みである。当時の台湾企業には,海外市場へ直接販売するチャネルを持たなかった。しかし,受託製造という仕組みが輸出を可能にした。

 

2 1980年代

経済発展及び1985年のプラザ合意後の台湾通貨の対ドルレートの上昇により,台湾の対外直接投資は爆発的に増加した。その内容は,労働集約型の工業部門の海外流出である。これにより,傘や靴の向上は,数年のうちに台湾からほとんど消えた。

しかし,台湾からあらゆる工業部門が消滅してしまったわけではない。それまでの労働集約型産業に代わって,パソコン,半導体,液晶パネル産業が伸長した。いずれも資本集約型あるいは技術集約型の産業で,賃金の上昇の影響を抑えることができるものである。その多くは受託製造に依存していた。

 

3 1990年代

 (1) パソコン

1990年代に入ると,2つの変化が生じた。1つは,小数の大企業への集中が顕著になったことである。鴻海精密工業や広達電脳のような一部の企業の巨大化が進行した。もう1つは,台湾企業は製造だけではなく,製品開発も担うようになった。製造のみを受託するOEMから開発も受託するODMへの移行である。ODMにはいくつかのパターンがある。もっとも極端な場合,台湾企業が開発した製品に顧客のブランドを付けて顧客に提供する。デルやHPが顧客の場合,顧客が台湾企業に機種のコンセプトを提示し,台湾企業がそれをもとに設計を行うというケースが多い。特に90年代に成長したノートパソコンでは,台湾企業は製品開発面で高い能力を発揮し,ODMの比重が増大した。

   このような変化をもたらした一つの大きな要因は,ウインテル支配1のもとでの,パソコンの標準化の進行である。その結果,米国パソコンメーカーはマーケティングやブランド管理に集中する一方,標準化によって利益を生まなくなった製造や設計をアウトソーシングするようになった。ただし,受け手となるためには,製品開発や生産体制の面で高い能力を持っている必要があった。激しい競争の中で,調達先の台湾企業の数も絞り込まれて,高い能力を持つ企業が生き残った。

   なお,ODMからの脱却に成功した例外的な企業としてACERがある。私の愛用しているパソコンも同社のものであるが,非常に安く,性能も十分でとても満足している。

 (2) 半導体

   台湾半導体産業の出発点は,政府主導の技術開発プロジェクトだった。その成果として1980年,台湾ではじめてウェハー加工を行うメーカー,聯華電子(UMC)が設立された。UMCは1980年に開設された新竹科学工業園区に入居した初めての企業となった。以降,台湾の半導体産業はこの地に集積していくこととなる。政府の技術開発プロジェクトは,その後も続けられ,その成果をもとに1987年にはTSMCが設立された。

   後発であった台湾の半導体産業が1990年代に急速に発展したのは,ユニークなビジネスモデルによるところが大きい。もともとある米国や日本の半導体メーカーは,設計,ウェハー加工,組立のすべて工程を社内で行う統合型の企業である。他方,台湾の二大メーカーはウェハー加工しか行わない。当然,自社で設計し,自社のブランドを付与された製品を持たない。このようなビジネスはピュアファウンドリーと呼ばれる。設計専門の企業の発展,統合型の企業においても自社製品のウェハー加工を社内で行う比率を抑制するようになったという潮流により,台湾のピュアファウンドリーは成功し,今日,TSMCは世界最大のウェハー加工メーカーであり,UMCは第2位である。両社のシェアを合わせると,世界の受託ビジネス市場の過半に達している。

 (3) 液晶パネル

   液晶パネルの発展メカニズムは,パソコンや半導体とは異なる。受託生産やピュアファウンドリーは,厳しい資金制約化で発展を模索する中から生まれた。他方,1990年代以降,経済発展と規制緩和によって,台湾企業の資金調達能力は格段に強化された。しかも同時に,日本企業は優れた技術を持ちながら資金調達に苦しんでいた。こうして台湾企業は新たに手に入れた資金調達能力を用いて,日本企業から技術を買うというビジネスモデルを生んだ。液晶パネルはそのもっとも顕著な成果を生み出したケースである。

   台湾側が資金を負担して工場を建設し,製造を担い,それに先進国企業が技術を供与するというモデルである。友達光電の前身である達碁科技と日本IBM,聯友光電と松下電器,友達光電に買収された広輝電子とシャープ,中華映管三菱電機,瀚宇彩晶と東芝などが提携した。提携先はいずれも日本企業となった。これは液晶パネルの技術開発がもともとほとんど日本企業によって行われていたためである。また,大手の友達光電と奇美電子に関しては技術的な自立が進み,台湾企業のシェアが急速に拡大した。現在は韓国企業と世界の上位を争っている。

 (4) DRAM

   DRAMも液晶パネルと同様,資金と技術の交換というビジネスモデルで伸長した。ここでDRAMについて。半導体はその機能によって,情報を記憶するメモリと情報を加工するロジックに大きく分けられる。DRAMは最も代表的なメモリで,パソコンをはじめIT機器に大量に使用される。かつて日本の半導体メーカーはこれを得意とし,1980年代には米国の半導体産業を一度は凌駕した。しかし,1990年代に入って韓国のサムスン電子の後塵を拝するようになった。

   このビジネスモデルにより,力晶半導体三菱電機,茂石夕電子とドイツのシーメンス,華邦電子と東芝が提携した。

 

 4 2000年以降と現状

資金と技術の交換というビジネスモデルは,液晶パネルやDRAMといった資本集約型産業の急速な発展をもたらしたが,同時に台湾経済に新たなリスクを負わせることになった。このような産業は巨額の投資を継続的に行わなくてはならない。しかも,固定資本が大きいだけに,需要が落ち込んだ場合,価格が急激に低下し,莫大な赤字が発生する。さらに,すでにこれらの分野はもともと韓国企業が得意としてきたため,彼らとの激しい競争に直面することになる。このようリスクは2008年のリーマンショック以降,きわめて先鋭的な形で出現した。DRAMは特に深刻な事態に陥り,台湾企業ばかりでなく,サムスン電子を除く世界のほとんどの企業は独力で生き残ることが困難になっている。政府は資金の供与を条件に,台湾企業と提携先の先進国企業の統合を進めようとしている。日本のエルピーダメモリ,力晶半導体,瑞晶電子,茂徳科技の4社を統合する計画が進められている。

また,2000年以降,台湾企業は中国投資を進めている。ノートパソコンや半導体ファウンドリーのような台湾の中核的企業までもが,中国に投資するようになっている。

 

 5 台湾の化学工業

台湾の大手製造業の多くは電子メーカーであるが,化学工業も検討している。民間製造業売上高ランキング(2007年)によると,台湾の製造業の売上高上位20社のうち15社は電子メーカーであるが,4社は台湾プラスチックグループに属する化学メーカーである(残り1社は,中国鋼鉄という台湾唯一の高炉メーカーである。)。

その4社とは以下の通り。台湾化学繊維,東亜プラスチック工業,台湾プラスチック工業,台塑石化である。前3者はプラスチック原料,プラスチック半製品,合成繊維などの中間財を製造し,輸出工業に供給することで成長した。台塑石化は石油精製やナフサ分解を行い,3社に原料を供給している。規制緩和を受けて,1990年代に設立された。

 

 

第2 シンガポール

 

1 1970年代及びそれ以前

1965年,シンガポールはマレーシアから切り捨てられる形で独立した。1967年,駐英国軍が撤退した。シンガポールは,経済発展に必要な資源を全く持たない状況で,経済発展を模索していかなければならなかった。シンガポールの工業化を特徴づけるのは,国家主導による強力な外資導入政策である。積極的な外資の導入のため,投資奨励法の制定,減免税措置などの各種の優遇措置,ジュロン工業団地の提供などの政策が採られた。シンガポールは数少ない,100%の外資企業を認めた国である。

1970年代初めには,外国企業の進出により,完全雇用が達成された。完全雇用の達成による労働力不足が生じた。労働力不足と近隣諸国の安価な労働力脅威により,シンガポールは,それまでの労働集約型産業から,資本集約型・技術集約型産業へ,産業構造の転換を図った。そのための産業構造高度化政策は1970年から実施されたが,これは以下の内容を持つ。①技術集約型産業の奨励,②既存工場の機械化・コンピュータ化,③高賃金政策,④労働者の技術向上。これにより,研究開発,石油化学産業,化学薬品産業,航空機産業などハイテク産業が伸長した。

 

2 1980年代

1985年のプラザ合意による円高により,日本企業の海外投資が著しく伸長した。これによりシンガポールは高成長路線に入った。

 

3 1990年代

  シンガポールを軸に,マレーシアのジョホール州及びインドネシアのリアウ州に,工業,貿易,観光の一大中心地を作ろうという「成長のトライアングル」構想が1989年に打ち出された。シンガポールの資本・技術とマレーシア及びインドネシアの豊富で低廉な労働力・土地・資源を結びつけて成長させようとするものである。この戦略は成功し,高成長の一因となった。

  しかし,1990年代の高成長も,97年7月のアジア通貨危機による市場の停滞により輸出が落ち込み,成長が鈍化した。このような状況を克服すべく,政府は以下の政策を実施した。①全産業にわたる賃下げ,②企業と労働者が負担する年金基金にあたる中央積立基金の企業負担の減額(個人負担はそのまま),③法人税の軽減,④公共料金,土地レンタル料の値下げ。このような措置により,シンガポールは経済危機の影響を軽微に抑えることができた。1999年には早くも輸出入が危機前の水準に回復し,2000年の実質GDPの成長率は9.9%を記録した。

 

4 2000年以降及び現状

  2008年の米国発の金融危機は,外部依存の高いシンガポール経済を直撃した。しかし,シンガポール状況に依存していては生き残ることができない国である。安全な水の確保や新しい交通システムの構築に着目し,中東や中国での水処理事業の受注,電気自動車が普及した際の都市の在り方など世界的なエネルギー転換を見据えた目標を掲げた。そのために,政府は50カ国以上から2000人を超える優秀な研究者を集めて研究を続けている。また,政府は向こう20年間に200万人を超える高度専門人材の移民を受け入れる方針を発表している。

英語のほか,中国語,インド系言語を駆使する優秀な人材が豊富なことは,シンガポールの最大の武器である。また,シンガポール都市国家であり,政府の管理がし易い国である。国家主導の極限状態であり,開発独裁の国である。なお,開発のための機関としては,以下のものがある。①経済開発庁,②シンガポール開発銀行,③ジュロン開発公社。

 

 

第3 マレーシア

 

1 1970年代及びそれ以前

マレーシアは,19世紀からの長期にわたる英国の植民地統治のもとで,錫と天然ゴムを中心とする一次産品に依存した経済構造を形成した。錫鉱山の労働者は中国から南下してきた華人労働力にもっぱら依存し,天然ゴム農園にはインド人(主にタミル人)の移民に依存した。これにより,典型的な多民族社会が形成された。

1960年代,輸入代替による成長戦略は国内市場の狭小さにより限界に達した。また,同後半には,失業問題も申告した。このような状況の中,1968年以降,政府は以下の輸出志向型工業化政策を実施した。①投資奨励法の制定,②自由貿易地域(FTZ)法の制定,③電子産業特別奨励措置,④保税工場制度。

その結果,日立製作所,NEC,モトローラインテルなど有力半導体・ICメーカー25社以上がペナンやクアラルンプール周辺のFTZに殺到した。そして,1970年代には早くも,マレーシアが,日本,米国に次いで世界第3位の半導体輸出基地になった。

 

2 1980年代

1980年代には,電気・電子関連の輸出が工業品輸出ホ半分近くを占めるようになった。1981年に始まったマハティール政権は,選択的第二次輸入代替工業化という重工業化政策を実施した。これは世界景気の悪化などにより,国産車計画を除いては後退を余儀なくされた。

1980年代半ばには投資低迷,財政悪化,経常収支圧迫を伴う深刻な経済不振に陥った。政府は,これに対して,輸出志向の工業化により対処することを考え,第二次輸出志向工業化政策を実施した。これは,外資華人を含む国内民間資本の投資を重視するもので,①輸出志向型投資及びハイテク産業への投資には外資100%出資を認め,②ごく一部の大企業を除き,新経済政策2の履行を義務付ける工業調整法の適用を棚上げした。①により外資流入が促進されたことは言うまでもない。②によりほとんどの華人製造企業はブミプトラ資本と雇用比率に関する規制を全く受けないようになり,華人による投資も促進された。

こうした投資奨励策と時を同じくして,1985年のプラザ合意による円高,台湾・韓国などの為替レート上昇により,日本及びNIES(特に台湾)からのマレーシアへの輸出志向型直接投資が急増した。

 

3 1990年代

  これらの投資がマレーシアの工業化をさらに促進した。1988年から1997年にかけ,連続して年8%台という高度成長を維持した。この間,従来の電子部品の組立産業(労働集約型産業)からカラーテレビやVTRなどの付加価値のより高い輸出産業(技術集約型産業)への移行も生じた。

  1997年のアジア通貨危機を契機に成長速度は減速した。

 

4 2000年以降及び現状

   工業化の進展に伴い,これまでのFTZ型飛び地経済は改善の方向に向かっている。多くの外国企業が,金型,プラスチック部品,金属プレスなど,部品・資材を現地調達するようになり,裾野産業が発達したからである。

   他方で課題もある。第1,製造業が電子・電機部門に偏りすぎている。第2,変化が急激だったため,人手不足や人材不足が目立つとともに,生産性の低さや技術力・経営能力の遅れも目立つ。第3,種族間の経済格差。第4,通貨危機によって経営基盤の脆弱性が暴露されたブミプトラ企業群の再編。

政府は,高付加価値と技術集約度の高い産業構造への転換を目指している。そのための開発戦略は以下の通り。①Kエコノミー(知識集約型経済)の推進,②高度情報技術産業の推進である。②については,これまで欠けていたソフト分野,ハイテク産業をその標的とする。そのための政府諮問機関として,国家情報技術会議が設立された。そこで立案された巨大プロジェクトが,マルチメディア・スーパーコリドー構想である。これは,クアラルンプールから南部へ広がる東西15キロ,南北50キロの丘陵地帯(主にオイル・パーム農園や錫鉱山跡地)に光ファイバー通信網をはじめとする先端技術やハイテク設備を備えた新都市構想である。この構想に参加する企業には優遇措置が与えられる。例えば,外資100%の出資の承認,10年間の法人税免除,外国人専門家の雇用数を制限しない,知的財産保護,サイバー法の適用によりインターネット情報を検閲しない。これらの優遇措置により世界の最先端企業を誘致しようとしているが,97年のアジア通貨危機の影響で遅れを生じている。

 

 

総括

 

 1 新たなビジネスの展開

 日本の製造業が急速にシェアを失っていく構図はあるものの,その原因は日本の大手製造業も製品開発やブランド管理,販売チャネルの拡大に特化しつつあるということである。

このこと自体は,問題ではない。

製品開発力やブランド力,販売チャネルのさらなる拡大で収益を上げることは十分可能だからである。米国のIBM,アップル,インテルがその代表といえる。しかし,日本は米国のアップルのような,顧客を驚かせる強力なコンセプトを提示できていないし,インテルのような中核技術のブラックボックス化とモジュラー化には成功していない。

このことが,真の問題である。

また,考えていくと,米国の成功モデルが唯一の成功モデルではない。日本は液晶パネルの開発や自動車生産に代表されるように世界にインパクトを与える高い技術力を誇っている。仮に日本が製品のコンセプトを生み出すようなことに特化した米国企業のまねを始めれば,それこそ問題である。この技術力を生かしつつ,過剰性能の削除による低価格化,外国企業との新たな形での提携の模索など,米国の追随にとどまらない日本なりの新たなビジネスの展開が望まれる。

 

 2 日本社会の均質性と均質志向

   話は変わるが,司法修習中に私は,マイケルサンデルの白熱教室に出会い,東京大学での出張講義にも出席する機会を得た。社会科学に強い関心を抱き,学部時代は政治学,大学院時代は法律学を専攻した私は,この講義に注目していた。授業の内容も新鮮さに満ちたものだったが,もう一つ新鮮だったことがある。

   それは,ハーバードの学生の多様さである。ハーバード大学は学生の多様性を重視しており,多様性を確保するための入学制度を採用している。

   一般に,学生の多様性は,互いに学びあえるという点で望ましいとされる。同じ地方,人種,階級の出身者しかいない環境では,知的・文化的視野が狭くなってしまうという論拠である。機を同じくして司法修習に取り組んでいた私は,日本の大学性の均質性と,均質化を望む横並び思考に辟易した。また,マレーシアに滞在していてもつくづく日本社会は均質だと感じる。

民族的な均一性もさることながら,テレビの強力な影響力により右に左に流されている様子,企業の新卒採用制度と就職状況の悪化のもとで,新卒採用を金科玉条のごとく考え就職活動にあくせくし,新卒を維持するために留年を選択までする学生たち。

多様性を全く志向しない日本社会はこれからどのようにして世界に立ち向かっていくのか,非常に心配だ。

 

1 OSとCPUはパソコンの規格に対して決定的な影響力を持っている。パソコンの規格はマイクロソフトインテルの2社によって事実上決定されてきた。これをウィンテル支配といったりする

 

2 マレーシアにおける新経済政策とは,ブミプトラ(マレー人を含む先住民の呼称)政策とも言われ,マレー人および他のブミプトラの経済的地位向上のため実施された社会再編政策をいう。その内容は,以下の通り。1990年までに株式資本の保有比率をブミプトラ30%,非ブミプトラ40%,外国資本30%に再編し,また,同年までに種族別人口比率に見合った雇用比率を達成すること。1991年以降はその基本方針が引き継がれ,2020年ビジョンに盛り込まれている。

 

 

・ 参考文献

 

アジア経済読本(第4版) (読本シリーズ)

アジア経済読本(第4版) (読本シリーズ)

 

 

 

 

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 
公共哲学 政治における道徳を考える (ちくま学芸文庫)

公共哲学 政治における道徳を考える (ちくま学芸文庫)

 
ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業〔上〕(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業〔上〕(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)